NO.118
発行年月日:2007/03/01

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トピックス
◇塩ビ製品の色もいろいろ
日弘ビックス株式会社 松村和幸

随想
古代ヤマトの遠景(15)—【氷川神社・賀茂神社】—
信越化学工業(株) 木下清隆
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編集後記

トピックス
◇塩ビ製品の色もいろいろ    
日弘ビックス株式会社 松村和幸

 「光のないところに色はない」「色があっても光がなければ見えない」光と色の世界には原理、原則があり厳然とした学問が存在する。しかし、長らく顔料を扱っているうちに、いつの間にか「色」とはすなわち「顔料」のことになってしまった。生業となった色は学問からやや遠ざかり、そこには経験と感性の世界が広がっていた。

 色を作る?色を顔料で表すには、顔料の色とその混色が作る色を記憶することと、粒子である顔料の分散を極めることが必要である。
 調色を例にとると、顔料には金属酸化物主体の無機顔料と有機色素の結晶である有機顔料があり、まずその中から目的の色相・物性・価格に応じて有彩色顔料を選ぶ。有彩色は色相の違う顔料2種を選び、次に必要なのは無彩色の白と黒だ。どんな色も白と黒を使っていると言っても過言ではない。白はチタンと呼ばれる二酸化チタン、黒はカーボンと呼ばれる炭素(煤(すす))が使われ、色を作るには通常この4種を混合するのである。
 その4種をどんな比率で混ぜ合わせると目的の色になるか、これはもう想像の通り経験とカンの世界である。忍耐力と感性を持つ人間が調色マンに選ばれ、数値だけでは表しきれない分野の、いわゆる職人的扱いとなる。

塩ビ用ペーストカラー
塩ビ用ゲルバッチカラー
 顔料が色として本来の機能を発揮するには、分散が不可欠である。顔料は生成(合成)時には微粒子であっても、それが乾燥凝集された粉体として取り出される。これを再び生成時の粒径に戻す必要がある。この作業が分散加工と言われ、経験が必要とされる部分である。
 顔料は樹脂や可塑剤(ビヒクル)と共に分散加工されて、始めて本来の色を示す。調色マスターバッチを作る場合、各顔料単位で分散加工を施した物(色)を半製品として作る。この半製品同士を絶妙な比率で混合すれば、目的の色マスターバッチが得られることになる。ところが色とはそれほど単純なものではない。顔料は粒子の大きさ(粒度)と分布で色調が決まるため分散工程の良し悪しが、もろに色として現れるのである。

 出来上がった調色マスターバッチは、次に成型加工メーカーにおいて実機で樹脂に希釈混練されるが、その加工方法と加工条件たるや実に様々である。顔料にしてみれば、せん断も熱もマスターバッチ製造時とは較べようもなく、大変過酷な条件に新たにさらされることになる。粒度も変る、分布も変る、故に発色(色)も変る。若かりし頃よく聞かされた「色は生きものだからな」と言う言葉の所以(ゆえん)がここにあったのである。
 この様な極めて複雑な現象を知恵と経験と忍耐で克服し、ひとつの製品を仕上げることは真に神業だ。しかしその達人が作り上げた色も、相手の光源が少し変っただけで微妙に違って見え、成型品の表面状態が変ればまた違って見える。
 NG・NGで時間が迫り、経済的にも健康的にもはなはだ悪い。はじめから加工条件、評価条件を細かく言ってくれれば助かるのだが・・・。

 顔料の色もいろいろ、分散性も、値段も、物性もいろいろ。調色に使った2つの顔料の耐光性に違いがあったため、半年後グリーンがブルーになった。このような物性(耐光性)問題はしばしば起こり得る。これはブルーと黄色で作ったグリーンの黄色が早く退色し、ブルーになった事例。実機加工中2種のブルーが熱作用で結晶変化して、グレーになった事例もまた参考書に載っていない、経験しないと分らない事である。

 複雑怪奇に絡み合った色の世界にも、今やCCM(コンピューターカラーマッチング)が登場し、色を数値化して効率よくターゲット色が作れるようになった。また物性も単価も示されるようになったことは真に大革命である。しかしその反面、ようやくCCM操作をマスターしたかと思えば、色差数値が一人歩きを始めて、今度は数値・数値の厳しすぎる要求に、旧達人がまたまた泣かされる羽目に陥っている。数値だけでは表しきれない最後の詰めは、相も変らず人間がやっているのだ。
 この色判定、合格となりませんか、人間的で寛容なエコ合格というのはどうですか? やはりだめですか・・・。仕方ないのでもう少し色を追究してみますか・・・。

編集者注 : 日弘ビックス株式会社様は、色材のリーディング・カンパニーで2006年11月に創立50周年を迎えられ、「日弘ビックス50年の歩み」を刊行されました。

随想
古代ヤマトの遠景(15)—【氷川神社・賀茂神社】—
信越化学工業(株) 木下清隆

 前回、出雲の影が色濃く大和に残されていることを紹介したが、今回はその影を求めて明治時代に飛ぶ。

 江戸時代が終わり明治の御世に入った時、明治天皇は武蔵国一宮、埼玉県の氷川神社をこの国の鎮守勅祭の社と定め、明治元年10月にこの神社への天皇の行幸が行なわれた。氷川神社は東京から30kmも北西に位置し、明治初期の頃としては大いに不便な場所だったはずである。そんな所へ天皇の行幸があったのである。この神社の位置する場所は久しく大宮市として親しまれていたが、平成13年の浦和市・与野市・大宮市の三市合併により「さいたま市大宮区」に変わった。

大宮氷川神社
 氷川神社が鎮守勅祭の社に定められたということは、この神社が武蔵野国全体を守護する神社に昇格し、その祭神が東京に遷都された天皇家の新しい守護神に指定されたということである。では、その祭神は如何なる神なのか。実は素戔嗚尊なのである。この素戔嗚尊については第11回に天照大神とセットで創作された神である可能性のあることを示し、出雲の熊野大社の祭神として迎えられたと述べた。この素戔嗚尊を熊野大社の祭神とする説は、必ずしも広く知られているわけではないが、このような考え方を明治天皇の行動は裏書していることになる。即ち、斉明天皇が熊野大社の祭神を天皇家の皇祖神とみなしていたことは先に述べた。この神社の本来の祭神は神魂神(かもすのかみ)であったが、後から迎えられた素戔嗚尊がいつの間にかここの祭神に収まったらしい。そのことを天皇の行幸は裏づけているということである。

 明治天皇は都が東京に遷されると知らされた時、真っ先にその鎮守勅祭社は武蔵国の氷川神社だと思い定められたことになる。そうでなければ、この神社に対する天皇の素早い行動の説明はつかない。このように考えると天皇家にとって、出雲の神とみなされるようになった素戔嗚尊に対する尊崇の念は一千数百年の間、全く変わっていないことになる。このことは我々が記紀の世界を通して理解している素戔嗚尊像と全く異なったイメージである。このように全く異なったイメージで素戔嗚尊は天皇家の中で伝承されていることになる。そして、恐らく現在もそのはずである。

 このように明治天皇の間髪入れない行動から、極めて重要な情報が発信されたことになる。では、現在の京都に都が置かれていた時代、山城国の守護神はどのような神だったのだろうか。その神は、実は上賀茂神社の祭神なのである。その神名を「賀茂別雷神」(かもわけいかつちのかみ)という。この賀茂神社を創建したのは大和の「高鴨神社」を祭祀していた賀茂氏であることを先に述べた。そして、高鴨神社の祭神が出雲の神であることは、「出雲国造神賀詞」の中で明確に述べられていることも先に示した。

 このように見てくると天皇家は、京都に都が在った約1千年間、出雲の神である「賀茂別雷神」を守護神として祭祀し、東京に遷ってからも同じく出雲の神である「素戔嗚尊」を守護神として祭祀することを定めたということになる。要するに天皇家は出雲の神に囲まれていることになる。ということは、天皇家そのものがその出自は出雲ではないかとの推測を生むことになる。

 先に斉明天皇のところで皇室は出雲大神を皇祖神とみなしていると述べた。ところが斉明天皇ののち、皇室の皇祖神は「天照大神」に替えられた。恐らく天武朝と考えられる。そのいきさつは複雑なので説明は省くが、この考え方を採ると天皇家の皇祖神は初めは熊野大神であったが、その後、女神天照大神に替わったことになる。そして、当然の帰結として天照大神は出雲の神のはずだということになる。しかし、高天原の最高神とされている女神天照大神に出雲の影など微塵も無い。では、天照大神とは一体如何なる神なのか。次回以降この謎多き神の検討を進めることにする。(続く)

前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
古代ヤマトの遠景(14) ・