先日の、週末の、比較的すいていた電車の中での出来事。乗り込んできたのは、小学校2〜3年生とおぼしき男の子と、その子の祖父とおぼしき60歳過ぎの男性。車内で、二人でしりとりゲームをはじめました。「すいか」、「かぶと」、「とんぼ」…とやってるうちに、こどもに「…る」で終わる言葉が廻ってきました。「る」のしりとりはなかなか難しい。どうするかな?とそれとなく聞き耳を立てていると、そのこども、「る…、る…、うーん、うーん…」と唸った後に、大きな声で、なんと「類は友を呼ぶ!」とやったものです。
いや、びっくりしました。小2〜小3の子供に、「類は友を呼ぶ」なんて言葉がわかる筈がない。しかし、咄嗟にでてきた所をみると、いつも家庭で、こんな言葉(ことわざの類)を教えてもらって、というか、やり取りをしているに違いありません。うーん、「おぬし、できるな!」と、言いたくなりました。それにしても、小癪なのはその祖父の対応。驚くでもなく、至極冷静に、「類は友を呼ぶ?そう、じゃあ、次は『ぶ』だね。えーと、ブルドッグ」と続けたのです。
最近、「見れる」だの、「食べれる」だのの、いわゆる「ら抜き語」や、「チョー嬉しい」だのの「チョー語」、「お勘定のほう、お願いします」といった「ほう言」などが流行り、日本語の乱れが指摘されています。日本語だって時の流れに沿って変化するのが当然だ、時代の流れだ、といってしまえばそれまでですが、そろそろ年寄りの部類に入ってきた筆者にとっては、昔と違う言葉遣いはかんにさわって仕方がない、何とか乱れを正せないものか、と考えるのです。
(かといって、筆者の言葉使いが百点満点だと自惚れてもいませんが…。)
しかし、そういった意味で、この電車内の経験には考えさせられました。
つまり、大切なことは、小さな時から、家庭でもいい、学校でもいい、お祖父さんからでも勿論いい、正確な情報を与えて理解させる、させつづける、ということなのだ、と思ったのです。日夜溢れ続けているTVなどのマスメディアの、低俗な言葉遣いにさらされる事を避け、しっかりした日本語に接する場を作ること、その機会を増やすこと、可能ならばそういった場を社会システムの中に設けることです。そうじゃないでしょうか。
後日談ですが、筆者は3年程前に出版された、齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」のファンなのですが、最近、この本の主張を取り入れて児童に古文を暗誦させている学校があると聞き、我が意を得ました。学校教育も最近やっと、少しは、まともになってきたのでしょうか。
さて、塩ビとの関係ですが、ダイオキシンだの環境ホルモンだの、いわば「ら抜き、チョー・ほう」的風潮にやられっぱなしだった塩ビ業界としては、社会に向けたしっかりした正確な情報提供を、これまで以上に進める必要がある、そのために今後もいっそう努力を続けます、という決意表明、ですかな。
|