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江東区にある化学肥料創業記念碑 |
東京には自然がない、と言われて久しいのですが、団塊の世代である私の子供の頃、50年近く前は自然だらけでした。自然と言っても、不自然の自然で、林や小川があった訳ではありません。現在も生まれ住んでいる江東区北砂地区は、昔、明治初期の殖産工業時代の工場地帯だったところで、化学肥料工業、精糖工業等の発祥の地で、近くの公園には碑が建っています。この一帯が、終戦前の東京大空襲で、一面の焼け野原となり、子供の頃は、まだ、この焼け野原がかなり残っていたと言う訳です。
現在のマンション群地帯からは、想像もつきませんが、工場跡の大きな野原は、夏になるとセイタカアワダチソウのジャングルと化し、また、精糖工場の原材料を貯蔵していた池は、クチボソ、メダカ、フナ、タナゴの生息地となり、空襲で使えなくなった田圃跡は、ザリガニやカエルの栖となっていました。チョウチョやトンボ、トカゲにクチボソ、ザリガニと、日がな、生物採集に興じる毎日で、私の家の周辺は、実に自然の宝庫でした。
それが、戦後の日本の経済発展そのままに、周囲の環境は激変して行きます。池は埋められ、野原は整地され、そこに大規模な団地が建ち並び、さらに、中小工場や倉庫が次々とマンションに変わって行き、半世紀のうちに、現在のマンション群となってしまいました。
私の子供が小さい頃、昔の自分の姿を思い出しながら、少しでも子供に自然体験をさせてやりたいと思い、当時、運河を埋め立てて造られたばかりの遊歩道公園や、団地の中の公園等、ほんの少しの自然を求めて、昆虫採集やトカゲ取り等に、子供を無理矢理、連れ出したものです。その頃からでしょうか、子供と一緒に取ってきたカタツムリや、近所の金魚屋さんから買ってきた、メダカや金魚や亀などを飼うようになったのは。
子供の後始末から始まった飼育が、なんと、現在まで、専門知識も持たず、まさに惰性のまま、メダカ、亀、金魚、ザリガニ等の淡水の生き物を飼うようになったのです。夏になると、毎週、休日は、大小6つの水槽のどれかを掃除をする羽目になります。
2匹のザリガニは、今年で、見事2度の冬を越しました。ザリガニと言っても、千円近くはしましたが。亀に至っては、10年以上は生き続け、小さい2匹の銭亀は、甲羅が17.5cmと15cmになりました。クロメダカは毎年、若干ですが、孵化しています。少しでも手を抜くと、水を腐らせ、忽ち水槽ごと全滅してしまいます。カタツムリもそうでしたが、汚れたところを好む生物はいません。どんな生き物でも、餌の残り、糞などを掃除して、いつもきれいにしてあげないと、長生きしません。
水槽の水換えや亀を冬眠させるための桜の葉集めなど、端から見ると、ばかばかしいことでしょうが、子供の頃の郷愁を求めているのでしょうか、あるいは自然との疑似体験を楽しんでいるつもりでしょうか、不思議と苦になりません。
こんな事をしていると、やはり自然破壊が一番の問題で、自然との共生が言われる中、人間が生きて行く上で、自然とどう折り合いを付けて行くのかが、環境問題の最大事ではないかと思います。しかし、都会では、自然はあまりにも遠くに行ってしまった感があります。生物の住まない環境は、人間にとっても、決して良いはずがありません。都会では、自然との共生ではなく、自然の再生が一番必要とされているのではないかと思います。自然再生の技術は、たくさんあるはずです。特に、環境浄化の最先端を歩む化学技術には、大いに期待しています。
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