NO.073
発行年月日:2006/03/30

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トピックス
◇非塩ビ系ラップフィルムはホントにダイオキシンを出さないのか?
 消費者を誤らせる広告は、もういい加減にして下さい。 

随想 
 古代ヤマトの遠景(6)-【古事記原典】-                   
信越化学工業(株) 木下清隆
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編集後記

トピックス
◇非塩ビ系ラップフィルムはホントにダイオキシンを出さないのか?

消費者を誤らせる広告は、もういい加減にして下さい。 

 「塩ビを燃やすと有害なダイオキシンが発生するので、塩ビ製品はなるべく使わないほうが良い」。
なんていう、もっともらしい「風評」が、日本の社会にまかり通っていた時代がありました。

 しかし、ダイオキシンはどんなものを燃やしても微量ながら発生すること、山火事などでも発生するので元々自然界にも存在していたこと、この発生を抑えるためには燃やす設備や燃やす条件を適切にコントロールすればいいこと、そして焼却設備が改善された日本ではダイオキシン発生量が数年前に比べ1/30~1/50にまで激減したこと、などの事実が明らかになり、広く社会全体にこの事実が知れ渡りました。その結果、今では良識ある人の中では塩ビとダイオキシンの関係が云々されることは皆無になりました。

 ・・・と思っていたのですが、意外や意外。食品包装に用いられるラップフィルムの世界では、未だにこのダイオキシン神話が生き残っていたのです!
 最近発行されたある業界新聞ではこのラップフィルムの特集を組んでおり、そこにラップメーカー各社が協賛して自社製品の広告を出していたのですが、その広告文たるや凄まじいものでした。
 曰く、「非塩素系ポリエチレン製ラップですので、焼却時にダイオキシン等の有害、有毒物質を発生することはありません(C社)」、「燃やしてもダイオキシンが発生しない○○ラップ(M社)」、「××ラップならダイオキシン0%(U社)」、などなど、派手にやってくれてました。

 このメルマガをお読みの方なら既にご承知と思いますが、どんなものを燃やしても、焼却条件によっては微量ながらダイオキシンは発生します。塩ビやその他のプラスチックでもそうですし、新聞紙や木材、食物などもダイオキシンの原因になり得ます。
 さらにプラスチックについて言えば、燃焼時にはダイオキシン以外にもごく微量とはいえ多種多様な化学物質が発生し、そのなかには例えばベンゾピレンなどの多環芳香族物質や青酸ガスなど、発ガン性のあるものや有毒、有害なものも含まれていることが、微量分析技術が進歩した結果分かるようになりました。これらのうち例えば多環芳香族物質は、塩ビを燃やした場合に比べ、ポリオレフィン類やナイロンなどを燃やした場合の方が、発生量ははるかに多いことが分かっています。塩ビはダイオキシンが出るから安全でない、その他素材はダイオキシンが出ないから安全、などとは、科学的にはとても言えたセリフではないのです。

 私たちは、非塩ビ系のラップフィルムが危険だ、などと主張しているのではありません。どのラップフィルムにせよ、焼却時には法律で定められた焼却設備で適正に処理されているのであり、その限りでは塩ビ系であろうが非塩ビ系であろうが、何ら不安を感じる必要はない、と考えています。

 ただ、数年前の「風評」を未だに謳い文句に使い、社会の不安をいたずらに煽り、その影で自社の利益を拡大しようという魂胆が、如何なものかと思うのです。
 「風評」を作り、それを煽り立て、社会に不安を巻き起こして自らの利益に結びつける行為は、残念ながらわが国のいろいろな場面で見られる現象ですが、他の業界ならいざ知らず、製造業の、しかも塩ビ製造とも関係が深い、化学業界の仲間内でこのような動きがあるということは、なんと悲しいことでしょうか。

随想

古代ヤマトの遠景(6)-【古事記原典】-  

信越化学工業(株) 木下清隆

 前回、古事記原典は天武朝以前に作られたことを述べたが、実は倭国の歴史記録として『帝紀』、『旧辞(きゅうじ)』が古事記以前に既に存在していたことは良く知られている。古事記の前文にそのことが触れられているからである。

 帝紀は主として天皇の系譜が記されたものであり、旧辞は主として物語等がまとめられたものとされている。両書がいつ頃制作されたのかについては、六世紀の中葉、欽明天皇、敏達天皇の頃とするのが定説となっている。ただ、残念ながら帝紀も旧辞も現伝されていない。
 ここで問題となるのは、古事記の原典と先に述べているものと、ここの帝紀・旧辞といわれるものとは同一かということである。残念ながらこれは同一ではない。理由は、現在我々が知るような古事記の豊かな内容が、六世紀中葉に既に出来ていたとは考えられないからである。更に前回述べたような各氏族の系譜の集大成がこの当時行なわれたとは考えられず、また、その必要もなかった筈だからである。

 そうなると、現在の古事記が七世紀後葉の天武朝にある程度完成していたとするなら、六世紀中葉以降、天武朝以前に古事記原典は作成されていたことになる。おおよそ七世紀前後の頃になる。その時期は、推古朝に当り蘇我氏全盛の時代である。この時期に蘇我氏が古事記原典を作成したはずだということになる。
 ではその可能性はあるのだろうか。実はこれは大いに有り得る。推古二十八年に聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記及び国記等」を編纂したことが書紀に記録されているからである。彼等が作成した記録は、蘇我入鹿が中大兄皇子達に殺されたとき、父の蝦夷が館に火を放って自決したことから、すんでの事に消失するところだったが、火中から拾い出されて中大兄皇子に献上されている。この「天皇記及び国記等」こそ古事記の原典となったものと考えられる。

 この原典は当然、帝紀・旧辞を下敷きとして組み立てられているとみられるが、大幅に書き換えられた節がある。その最大の改造は、天皇を九名も創作し天皇家の起源を千年近く古い時代に遡らせたことである。このとき誕生したのが神武天皇である。以下、綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化と続く。なぜこれら九名もの天皇が創作・加上されたといえるのかであるが、その理由は二つある。

 一つは、神武天皇には相当量の記述があるが、綏靖(すいぜい)から開化までの八代は系譜以外の記述がほとんどなく、欠史八代といわれるくらいで、これは創作されたことから来ていると考えられる。
 二つ目は、神武天皇による大和での建国元年が辛酉の年、即ち、西暦紀元前660年とされていることである。先に卑弥呼の死が248年頃と述べたが、記録からたどれる倭国の歴史はせいぜい2~3世紀となっており、帝紀の中の初代倭王もこの時代の人物として記録されているはずである。従って、これより古い時代に存在したことになる、欠史八代の天皇達と神武天皇は創作されたと考えざるを得ないことになる。

橿原神宮
 神武天皇については、もしこの天皇が倭国の初代の王とするなら、あちこちの神社で祀られている筈である。ところが、神武天皇を祀る神社は江戸時代までなかった。明治の御世になり天照大神を中心とした国家神道が打ち立てられた時、神武天皇の神社がないのは問題だとされ、急遽、立派な神社が創建された。それが橿原(かしはら)神宮である。畝傍山(うねびやま)を背にして広大な神域の中に重厚な社殿は佇んでいるが、未だ若い神社なのである。

 このように蘇我氏時代に皇統の加上・改竄が行なわれたとするなら、なぜこのようなことを蘇我氏は行なったのかが疑問として出てくる。このような疑問を解く前に、そもそも蘇我氏とは一体何者なのかの謎解きをしておかなければならない。次回は蘇我氏探訪を行なうことにする。(続く)

前回の「古代ヤマトの遠景」は下記からご覧頂けます。
☆    「古代ヤマトの遠景(5) ・