(4) |
このように考えると、崇神天皇を初代倭王としたとき、この天皇の祖神となる神が大和で祭祀されていたこと自体が怪しくなってくる。一つの考え方として、自分の出身地で祭祀していた祖神を大和でも祭祀し始めたと考えることはできる。ところが、それまでして祀っている神を、理由らしい理由も無く外に放り出すなどは考えられないことになる。
|
|
(5) |
二つ目の考え方として、前回挙げたように大和の守護神である三輪山の神を放り出したと考えることもできる。しかし、この場合は大和の地においてはよそ者に過ぎない初代倭王が、いきなりそのような無謀なことができるかという問題が出てくる。そしてこれは、普通には考えられないことと云える。 |
|
(6) |
以上のような検討結果から、崇神天皇紀に書かれている、天照大神を宮中から外に出したという記述は、とても信用できるものではないことになる。従って、このような行為がなされたのは、更に後世のことと考えない限り話の辻褄は合わないことになる。ところが天照大神が天皇家にとって終始変わらない皇祖神だったとするなら、崇神紀に記されているような無謀なことをする天皇が存在したこと自体が問題となってくる。
|
|
(7) |
この問題に対する考え方には二つある。一つは、天皇家は万世一系ではなく、途中で王朝が変わったという考え方である。この「王朝交代説」は戦後間もなく「騎馬民族説」が唱えられてから一時期盛んになるが現在では下火になっている。この説の致命傷は、記紀にそのことが全く記載されていないことである。現在の天皇家が最後の王朝を開いたとするなら、自分達が征服した諸国との戦いの有様が克明に記録されているはずである。ところが、そのような記述が全く無いのである。中国の「史記」は当にそのような歴史書である。お隣朝鮮半島の正史「三国史記」にも、戦いに明け暮れる記述がこれでもかと続く。 |
|
(8) |
このような征服譚の記録がないことから、どうも天皇家は万世一系である可能性が高いと云えることになる。そうであれば、二つ目の考え方として天照大神は初めから皇祖神ではなかったと考えざるを得ないことになる。このことは先に天照大神は天武朝に誕生したことを紹介したが、この事と符合してくる。
|
|
(9) |
要するに、崇神紀の記述は後世になって天皇家の祖神に昇格する神で、未だ天照大神とは称されていなかった神を、崇神以降の天皇の誰かが宮中から外に出したと解釈されることになる。しかもその天皇と祖神昇格前の神との間には、何か血縁的な薄さとでもいった何かがあったと想定せざるを得ないことになる。 |
|