NO.149
発行年月日:2007/10/18

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トピックス
◇World Vinyl Forum開催さる

随想

古代ヤマトの遠景(19) —【伊勢神宮】—

信越化学工業(株) 木下清隆

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【NEW】今問題になっている内容のセミナー In 熊本 のご案内
日経住まいのリフォーム博 2007 出展 &
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編集後記

トピックス
◇World Vinyl Forum開催さる

ボストン市内
(クリスチャン・サイエンスセンター)
WVF プログラム
 これまでメルマガやVECホームページで案内してきましたように「我々の将来を持続性ある時代とするために」と副題のついたWorld Vinyl Forumが9月26日〜28日とアメリカのボストンで開催されました。17カ国から265名の参加者を数え、アジア地区では、日本の他、中国、韓国、インドネシア、タイ、インドからも参加がありました。参加者はほとんどが塩ビ関連の企業と団体ですが、大学などの研究機関やUS Green Building CouncilなどのNGOの参加もありました。250名を超えるフォーラムにも関わらず、開催の挨拶に続いて、一人ひとりが名前と所属、出身国を自己紹介するスタイルがとられ、立って挨拶するごとに会場みんなの視線が一斉に浴びせられていました。

 発表内容のトピックスを少し紹介しますと、市場調査会社の予測では、塩ビ産業の07〜12の成長率は年平均5%とされています。その成長の中心は、中国、インド、中東欧、ロシアです。塩ビの技術開発として、ナノ粒子化した炭酸カルシウムを塩ビに添加することにより強度を高めることができるとか、粘土を添加することにより透明度を保ちながらも酸素や水の透過性を低下させることができるなどの研究技術が紹介されました。米国化学工業協会(ACC)の活動のひとつとして、フタレート委員会からフタレートの各州の規制にまつわる経緯説明があり、2007年に8つの州とニューヨーク市でフタレート使用禁止の法案が出されたが、審議が続いているカリフォルニア州を除いた全ての州で廃案になったとの事です。その背景には、業界側が示した科学的根拠が認められたのではないかと思います。米国では建築家の卵を育てるため、建築専攻の学生を対象とした組織が作られており、塩ビ業界ばかりでなく建設材料を提供している業界が支援していることが紹介されました。日本にはない事例として、大変興味深いものでした。

 日本からの報告として、関専務理事が持続的成長に役立つ塩ビと題し、塩ビサッシの気候変動緩和化への貢献や塩ビの持つ特徴ゆえに建設資材として多く使われていることなどを紹介しました。もちろん、VEC、JPECが中心となって、塩ビリサイクル推進のためリサイクルビジョンを策定し活動していることも紹介しています。また、国連大学の上野先生は、以前三菱電機におられた経験を活かし、電化製品にPVC部品が使われてきた歴史と、どんな風にリサイクルされているかについてふんだんで具体的な写真を使って紹介し、注目を集めていました。

 以上のように、塩ビの世界の需要は今後も伸び、新たな技術開発や商品開発も進んでいることから、将来のサステイナブル時代において、省資源、省エネルギーの特性を持つ塩ビの重要性がさらに認識されたフォーラムでした。ちょうどフォーラムの最終日(9月28日)は、野球ファンにはおなじみでしょうが、松坂、岡島の所属するレッドソックスが地区優勝を決めた日で、翌日のテレビでは1901年から始まるレッドソックスの歩みを放送していました。何かと印象深いボストンでのWorld Vinyl Forum IIIでしたが、5年後の再会を期し閉会しました。(了)

随想
古代ヤマトの遠景(19) —【伊勢神宮】—
信越化学工業(株) 木下清隆

 前回に天照大神が伊勢に遷されたのは、雄略朝の477年だったと想定されることを紹介した。このような年代設定が正しいとするなら、なぜ雄略天皇は天照大神を伊勢へ遷したのかが次なる問題として出てくる。その遷座の理由については、
 1)東国経営の拠点説
 2)日の神信仰説
 等が出されている。先ず、「東国経営の拠点説」であるが、この説の基本的な認識として、雄略天皇を含む「倭の五王」時代、ヤマト政権は美濃以東の東国経営に乗り出したとするもので、このような東国経営の拠点として伊勢が選ばれ、従って、天照大神も伊勢へ遷されたとする説である。次の「日の神信仰説」は、天照大神は本来「日の神」であり、大和から真東に当たる伊勢地方から日が昇ることから、日の神信仰に相応しい伊勢に天照大神は遷されたとする説である。

 このような説は確かに一理あるが、五世紀の「倭の五王」時代に本当に東国経営が始まったといえるのか、日の神信仰はいつ頃始まったのか、それは五世紀なのか、といった問題がある。しかし、基本的に問題があるのは、これらの説が伊勢遷座を肯定的に解釈しようとしている点にあるといえよう。本稿ではこれを否定的に解釈しており、そこに基本的な違いがあるといえる。天照大神の伊勢遷座をとんでもないこととして否定的に解釈する場合、なぜこのような暴挙が行なわれたのか、その原因を明らかにする必要が出てくる。このような視点での検討はこれまでに為されたことがないようなので、以下に一つの考え方を提示することにする。

瀧原宮
 それは、なぜ伊勢国が雄略時代に、天照大神の受け入れを承諾したのかという問題が一つの切り口となる。天照大神は倭姫に連れられてあちこちを放浪したことになっている。後世になって『倭姫命世記』なる書が著された。これは天照大神放浪譚の集大成とでも言うべき書であるが、これによればその放浪範囲は更に広がる。ではこのような放浪譚は史実として認められるのかと云えば、これらは荒唐無稽の創作譚と考えるのが順当であろう。雄略天皇が、宮中で祭祀していた天照大神を外に出し、書紀に記述されているように、理由も明確にしないで豊鍬入姫にその御魂を預けて、何処にでも行って祀ってくれなどという、無責任なことをするのかということである。いくら雄略天皇が無謀であってもそんな無茶なことをするとは考えられない。彼は何か理由があって御魂を外に出した。しかし、受け入れ先については事前にその了解を得て、送り出したはずである。ではなぜ放浪譚が生まれたのか。それは大和から伊勢への旅があまりにも過酷であったことと、御魂を女性が運んできたこと自体が破天荒なことだったからであろう。伊勢の人々は彼女の苦労話を聞くに付け、何かと尾ひれをつけて大きな話にして行った、といったことが想定される。ではこの過酷な旅は一体何処を通ったのであろうか。そのルートは全く不明であるが、大和から伊勢神宮までを地図上で見る限り山又山が連なり、五世紀当時まともな道が在ったとは考えられず、極めて厳しい旅になったであろうことは十分に想像される。ただ、このルート上に瀧原宮という伊勢神宮の「遥宮(とおのみや)」と称されている神社があり、この神社が何か鍵を握っている可能性はある。

 天照大神がどのようなルートを通って伊勢にたどり着いたのかは分からないが、相手側の国即ち伊勢国が受け入れを承諾したことから直接現在の伊勢神宮へ向かった、しかし、その旅は過酷なものであったと想定されることになる。従って、ここでは天照大神と倭姫命の諸国放浪は無かったとの考え方である。では伊勢国の首長即ち後の伊勢氏はなぜ天照大神の受け入れを承諾したのだろうか。当時の倭王が天照大神を宮中の外に出したことについては、ここでは、その倭王自身が厄介払いをしたと判断しているが、その厄介払いされた祖神をなぜ伊勢氏は引き取ったのであろうか。(続く)

前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
☆古代ヤマトの遠景(18) ・