NO.157
発行年月日:2007/12/13

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トピックス
◇第2回国際シンポジウムを終えて
塩ビ食品衛生協議会 常務理事 石動正和

随想

古代ヤマトの遠景(21)—【伊勢氏と天皇家】—

信越化学工業(株) 木下清隆

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編集後記

トピックス
◇第2回国際シンポジウムを終えて
塩ビ食品衛生協議会 常務理事 石動正和

講演会の様子
シンポジウム参加者の皆様
 12月7日、野村コンファレンスプラザで開催した塩ビ食品衛生協議会第2回国際シンポジウムには、中国・韓国・タイ・インド・日本より80名の方に参加、協力頂き、たいへん有意義な催しになったと思います。

 協議会は、この間、内外の行政機関や化学業界団体と関係を密にしてきましたが、今回のシンポジウムは、こうした関係強化の成果となりました。日頃よりご指導頂く厚生労働省基準審査課(国枝課長)、経済産業省化学課(山根課長)をはじめ、日本ビニル工業会、可塑剤工業会、塩ビ工業・環境協会、ポリオレフィン等衛生協議会、塩化ビニリデン衛生協議会をはじめとする関連団体、また国立医薬品食品衛生研究所(河村室長)より頂いたご好意の賜物と考えています。

 シンポジウムでは、会長、厚労省、経産省からのあいさつに始まり、7つの招待講演が行われました。厚労省からは、日本における安全管理の枠組みを中心に報告されました。中国衛生部からは、前半中国の法規制の全体像が説明され、後半国家標準GB9685(食品器具・容器包装材用ポジティブリスト)の改正状況が報告されました。韓国からは、法規制の枠組み紹介の後、先頃策定されたPVC用ポジティブリストの概要が紹介されました。タイTFDAからは法体系と規格基準が具体的に紹介され、またタイ科技庁からは規格基準に対する評価方法とその実績が報告されました。インドについては、講演者の都合が悪く不参加となりましたので、主催側よりプレゼンテーション資料を代読しました。インドの法規制については比較的知られていないこともあり、代読によってもそれなりに意義があったと思います。最後に協議会から、欧米の規制動向の概要を紹介したあと、協議会がこの間進めてきた海外とのコミュニケーションの実績を紹介しました。参加者はいずれも熱心にメモを取り、事後のパーティではあちこちで情報交換の輪が出来ていました。

 また本シンポジウムに連動し開催した中国衛生部とのサテライト・ミーティングでは、現在中国で進められている国家標準GB9685の改正状況について質疑応答を行いました。この中で、より具体的な情報が入手できたと思います。協議会は、今後とも海外とのネットワークを広げ、有意義な情報をよりスピーディに入手していきたいと考えていますので、変わらぬご指導、ご支援をお願い致します。(了)

随想
古代ヤマトの遠景(21)—【伊勢氏と天皇家】—
信越化学工業(株) 木下清隆

 前回までに述べようとしたことは、天照大神を引き受け、祭祀した度会氏と伊勢氏とは同族だった可能性が高いということである。その決め手となっているのが「天日別命」である。この命は伊勢氏の祖とされているが、同時に度会氏の祖ともされているからである。しかし、彼らの本当の出自はこの天日別命からだけでは分からない。そこで、も少し書紀の内容を検討してみることにするが、伊勢氏については極めて重要な記述が、敏達天皇4年正月条に出てくる。内容は、分りやすく書くと次のようになる。
 「伊勢大鹿首小熊(いせのおほかのおびとをぐま)の娘で菟名子夫人(うなこのおほとじ)は、采女(うねめ)として宮中に仕えていたが、天皇の夫人(みめ、皇后の次の位)となり太姫皇女(ふとひめのみこ)と糠手姫皇女(あらてひめのみこ)を生んだ。」
 敏達天皇は、6世紀後葉の天皇で、この三代後に推古天皇が即位して飛鳥文化が花開く。敏達朝は天皇家の基礎が固まった時代で、いろんな面での体制整備が進んだ時期といえる。この当時、諸国の国造(くにのみやつこ)は国の美人を宮中に差し出し、奉仕させることが求められていた。このような女性を「采女」という。正月条の文脈から、伊勢国造の娘菟名子を采女として宮中に仕えさせていたところ、何と天皇夫人として召しだされ、二人の皇女まで生んだことになる。おそらく百人は下らない采女の中で、夫人になるとはなんと幸運なことよ、ということでお仕舞いになりそうな話であるが、これにはとんでもない後日談が続く。

飛鳥寺
 この後、菟名子夫人の娘糠手姫皇女(あらてひめのみこ)は皇子を産むが、それが田村皇子であり、後の舒明天皇である。この天皇は推古天皇の没後、後継天皇争い中から誕生した天皇であるが、その争いをした相手が山背大兄王(やましろのおほえのみこ)である。この大兄王は聖徳太子の子であり、後継天皇としては申し分のない資格を有していた。このようなことからこの王を推す勢力も多数あり、推古天皇の後継争いは一大争議に発展してゆく。この問題に断を下したのが当時の最高権力者であった蘇我蝦夷(えみし)である。
 ではなぜ蝦夷は、たかが伊勢の采女の子に過ぎない田村皇子を舒明天皇として即位させたのか、これは大きな謎である。当然、蝦夷からみて山背大兄王を後継者に出来ない政治的理由が何かあったことは当然考えられるが、だからと言ってこれほど出自の低い女性の子が天皇となることは、当時にあっても破天荒のことである。更にこの舒明天皇から、天智天皇と天武天皇が誕生する。現在の天皇家は天武系から再び天智系に戻っているが、結果的に今日に至る天皇家のルーツは伊勢氏に繋がることになる。
 では、これほど重要な地位を占める菟名子は偶然、天皇に見初められ、結果的に国母となったのかと言う問題が出てくる。偶然であれば、蝦夷の決断は歴史上の大問題となってくるが、二人の出会いは偶然ではなかったことが、後から分ってくる。それは、この後の天平勝宝元年(七四九)四月に、聖武天皇は宣命の中で、功績のある人物として三国真人・石川朝臣・鴨朝臣・伊勢大鹿首等を挙げ、位階を上げるべき人々として勅しているからである。何でこんなところに伊勢大鹿首が飛び出してくるのか不思議なことである。彼の娘が敏達天皇の夫人となったのはおよそ200年も前のことである。その後、伊勢大鹿首の名は書紀には全く出てこない。それが突然の出現である。恐らく聖武天皇にしてみれば、何か特別の思い入れがあったものと思われる。

 ここに挙げられている4人の内、3人には真人・朝臣の姓(かばね)が付けられている。これは天武朝に八色(やくさ)の姓が制定されたときのもので、真人・朝臣・宿禰・忌寸・導師・臣・連・稲置がその序列となっている。これに対し首(おびと)は古代のカバネとして用いられていたものであるが、天武朝の八色制では外されている。専ら地方の豪族に対する尊称といえるものであり、伊勢大鹿首の娘が采女として宮中に仕えていた頃の父親の立場は、この程度だったと言うことである。その後、伊勢氏の後裔たちは急速に出世し始め、朝臣のカバネを賜るまでになる。この朝臣のカバネは出自の証といえるもので、勲功への褒章とは異なっていると言える。
 その最大の例が大伴氏である。大伴氏は古代史全般にわたって登場し、物部氏と共に天皇家を支え続けた名族である。ところが彼等は天武朝において、宿禰しか賜らなかった。これに対し、物部氏は朝臣を賜姓されている。このことから、物部氏は天皇家の祖とは遠いとみられるが、何か血縁関係にあったことが想定されることになる。この論法を伊勢氏に適用すると、伊勢氏も大昔は天皇家とつながっていた可能性が出てくる。このことは、前回「ヤマト政権が伊勢国を服属させたときに、ヤマトから行政官が送り込まれたのではないか」と推測されることを述べたが、このとき送り込まれたのが後の伊勢氏であり、彼等は初代倭王に極めて近かったことが窺われることになる。
 爾来、雌伏2世紀半にして、彼等はその娘が天皇の夫人となることで、歴史の表舞台に出てきたことになる。このとき敏達天皇と伊勢氏を引き合わせたのが、息長(おきなが)氏であると考えられるが、この問題は長くなるので、深入りしないことにする。
 今回は伊勢氏が天皇家に近いことを述べたが、次回はこの氏族が出雲に繋がる話をすることにする。(続く)

前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
☆古代ヤマトの遠景(20) ・