NO.163
発行年月日:2008/02/07

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トピックス
◇ANDEAN塩ビフォーラムについて

塩ビ工業・環境協会 専務理事 関 成孝


随想

古代ヤマトの遠景(22)—【度会氏の祖(1)】—

信越化学工業(株) 木下清隆


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【NEW】NEDOの補助金事業が公募開始されました。

編集後記

トピックス
◇ANDEAN塩ビフォーラムについて

塩ビ工業・環境協会 専務理事 関 成孝


カルタヘナ旧市街
 この1月31−2月1日にかけて、コロンビアのカルタヘナで『ANDEAN塩ビフォーラム』が開催されました。ANDEANとはアンデス地域のことを指します。カリブ海の要所に位置し、自然の良港でもあるカルタヘナは、スペイン帝国統治下で重要な港として栄え、現在もコロンビア第二の荷揚港です。植民地時代の城壁や旧市街がよく保存されており、様々な歴史的建築物が数多く現存することから、1985年にユネスコの世界遺産に登録されています。

 カルタヘナは、アンデス地域の諸国が共同体の結成に合意(1969年カルタヘナ協定)した地です。現在の共同体の加盟国は、ボリビア、コロンビア、エクアドル、ペルーで、域内自由貿易圏を形成しています。域内人口一億人弱、域内GDP約二千億米ドルの経済圏です。アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、チリが準加盟国、メキシコ、パナマがオブザーバとして参加しています。ベネズエラは、当初の共同体メンバーでしたが、コロンビアとペルーが米国と締結したFTAに反発して共同体から脱退しています。しかし、ANDEAN塩ビフォーラムにはベネズエラの人もたくさん参加しています。二年おきに開催され、三回目となる今回のフォーラムには約200人が参加し、日米欧の塩ビ協会からの招待者とともに、塩ビを巡る最近の動向について活発な意見交換を行いました。

 塩ビの世界需要は、過去5年間は年率5.1%、これからもほぼ同率で伸びると見られています。今後、原油価格が高止まりすれば、他の樹脂に比して石油依存度が小さい塩ビの競争力は一層高まるだろうと期待されています。2006年の塩ビ市場は、欧州では西欧での需要が堅調に伸びた(2.7%)ことに加えて東欧市場の需要は二桁の伸びとなっているとのことで、欧州全体として4%と高い伸びを示しました。東南アジアも二桁の成長となったようですが、米国の生産量は、住宅着工件数減が響いて3%の減少となったとのことです。塩ビの南米市場は、生産能力で世界の4%ですが需要の拡大を反映し輸入が増大しています。需要は過去5年間、年率6.8%で伸びてきました。今後5年間も、平均年率4%程度の伸びが予想されています。

 南米市場でも、建材関連の用途が多く、15年以上使う製品となるものが過半を占めています。また、包装容器としても塩ビは重宝されています。このため、フォーラムではリサイクルに高い関心が示されました。会場からは、塩ビに生分解性を付与できないかという質問もありましたが、むしろ、塩ビの優れた耐久性とリサイクル性能を生かし、効果的なリサイクルシステムを作っていくのが重要であろうというのが専門家たちの答えでした。ちなみに、EUは、2010年までに自主的に20万トンをリサイクルするという目標を掲げていますが、2006年には8.3万トンが回収できたとのことです。日本では、ほぼ同量の使用済み塩ビ製品がマテリアルリサイクルされています。西欧の内需は日本の4倍以上ありますから、日本はリサイクルで西欧を凌駕している訳です。

カルタヘナ旧市街路上にて
 経済成長著しい南米の諸国において、瀟洒なホテルやオフィスの近傍に、それらとは別世界の貧困層の集落が広がる光景は珍しいものではありません。カルタヘナも例外ではありませんでした。南米だけでなく多くの途上国に見られる現実です。これらの諸国にとって、持続的な成長を遂げるためにはインフラ整備は社会的経済的に重要な課題であり、塩ビに期待される役割には大きなものがあることを感じました。安全性、環境問題への対応、リサイクルなどに関する知見や経験の共有が、途上国の持続的成長の一助となります。米欧とともに日本も積極的な貢献をしていきたいと思います。(了)

随想
古代ヤマトの遠景(22)—【度会氏の祖(1)】—
信越化学工業(株) 木下清隆

 前回は伊勢氏について語り、彼等が倭王家と繋がっていることを述べた。今回は度会(わたらい)氏についてその概要を説明することにする。
 度会氏は雄略朝に伊勢氏の意向に従い、初代倭王の御霊を受け入れた。そして、現在の内宮の辺りに祠を造り御霊を祀ったと考えられている。このとき土地の開墾整備等に尽力したのが大若子命(おおわくごのみこと)と称せられる彼等の祖である。当然、この命より古い祖が何代も続いているはずであるが、とんでもない大事件にたまたま遭遇し、結果的に後世に名を残すこととなった大若子命が度会氏の重要な祖となったということである。この後、度会氏はその後内宮と言われるようになる社と、彼等の守護神を祭る社(外宮)の大神主に任命され、天武朝までその地位を守り続けた。およそ200年間にも亘る長い年月である。

伊勢神宮「外宮」
 天武朝になると伊勢神宮の祭祀を司る長は禰宜と改められたことから、度会氏は内宮と外宮の二所の禰宜職を務めることとなった。ところが、持統朝になると内宮の禰宜職は、度会氏から荒木田氏へ移されてしまった。結果的に度会氏には、外宮の禰宜職のみが残されることとなった。これまでの誇りをいっぺんで吹き飛ばされてしまった度会氏の無念さ、悔しさはさぞかしと大いに同情される。同時に彼等は将来のことが大いに不安となったはずである。

 貶められ絶望の淵に立たされた度会氏は、自分達の失地回復のために或る書を書き残した。それが『太神宮本記』と考えられている。この本記は二巻構成になっていたらしいが、後年焼失した。しかし、第二巻の残片は伝承されていたらしく、それが鎌倉時代になって『倭姫命世記』として再編されたらしい。この世記の中で、天照大神の放浪譚が長々と語られるが、この天照大神に扈従するのが大幡主命で、随所にその名がリフレインされる。従って、これを読むものは否応無くその名前と活躍振りを印象付けられることになる。『倭姫命世記』の内容が『太神宮本記』の内容とかなりの部分一致しているとするなら、『太神宮本記』は度会氏が、自分達をPRするために制作した可能性が出てくる。要するに「私達、度会氏の祖である大若子命は天照大神に扈従して各地を回り、天照大神が最終的に伊勢の五十鈴川の辺に鎮座された時に、ご奉仕した大変な功臣なのです」といったPRである。この広報活動は成功したのかどうかが知りたいところであるが、実は大成功を収めるのである。奈良時代から平安時代を通し、その時代の最高位の女性達の幾人かが大若子命の祭祀を続けた。その最初の女性が県犬養橘三千代である。彼女は藤原不比等の妻であり、また歴代天皇によく仕えたことで橘姓を賜った。このような成り行きを見て度会氏は、積年の溜飲が下がったに違いない。

 『太神宮本記』が書かれたのは日本書紀が完成された720年より少し後と考えられている。その頃『伊勢国風土記』も伊勢氏によって撰進された。この風土記の中に伊勢氏の祖として「天日別命」が登場してくる。伊勢氏の本来の祖は「伊勢津彦」のはずであるが、なぜか伊勢氏は風土記の中で、伊勢津彦を追い出し新たな祖として天日別命を迎え入れる。ところが『倭姫命世記』の中にも、付け足しのようにして天日別命が度会氏の祖として記載されている。風土記の内容を見て驚いた度会氏は、慌てて自分達のPR書である『太神宮本記』に記載したものと考えられる。

 このような史料上の対応関係から、伊勢氏と度会氏は同族のはずだと先に論じたが。その具体的な内容は以上のようなものである。しかし、この後、両氏の関係は悪化する。そして、ついに度会氏は自分達の本当の祖を明らかにする。それは更に数百年後のことである。(続く)

前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
☆ 古代ヤマトの遠景(21) ・