古代ヤマトの遠景(16)—【天照大神の放浪譚】—
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信越化学工業(株) 木下清隆
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このシリーズの第10回で「天照大神」の誕生が比較的に新しいことを紹介したが、今回はなぜこの神が伊勢神宮に祀られているのかについて、その経緯を説明することにする。
天照大神は建前上皇祖神として神代の時代から坐(ま)しますことになっている。当然この神の後裔が神武天皇に繋がることになる。その系譜をたどると次のようになる。
天照大神 ⇒ アメノオシホミミ尊 ⇒ ニニギ尊 ⇒ ホホデミ尊
⇒ ウガヤフキアエズ尊 ⇒ 神武天皇
この内、ニニギ尊は高天原から日向の高千穂峯に天降りしたことになっている。ここから地上での天皇家の歴史は始まる。日向の地が天皇の本拠地ということになる。ところがその皇祖神である天照大神は、日向ではなく大和からは反対方向に当たる伊勢の地に祀られているのである。どう考えても方角は違うし、日常の祭祀を考えると皇祖神を伊勢に祀るのは、如何にも遠すぎる。その昔であれば伊勢の地は未だ未開の地であったはずである。そんな僻地になぜ天照大神は祀られることになったのだろうか。
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伊勢神宮内宮 |
実は書紀の中に天照大神を宮中から出して伊勢に遷す話が出てくるのである。この話は書紀の中でも大変有名なくだりで、次のように書かれている。
— 天照大神・倭大国魂、二の神を天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。—
意味は、天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神が宮中で祀られていたが、これらの神の勢いが強く、二神を祀ることが出来なくなった、といったものである。だから、二神を宮中から出すことになった、とこの後続くが、なぜ、祖神を外に放り出すようになったのか、その理由は不明である。「其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。」と理由らしきことが書いてあるが、二神の勢いが強いくらいでは理由にならない。
実はここに引用した文の前後には、大和に疫病が流行り時の崇神天皇が困り果てる話が続いている。その途中に突然のようにこの文章が挿入される。従って、二神を宮中で祀ることが災いを招いているから、二神を外に出したと解釈できないことも無い。しかし、この疫病問題は三輪山の神を祭祀することで収まったと話が続くことから、この解釈も的外れといえよう。
要するに理由が明らかにされないまま、天照大神は宮中から当ても無く放り出されるのである。当初は豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が三輪山の近くで祭祀していたことになっているが、次の垂仁天皇の時代になって、その皇女、倭姫(やまとひめ)が代わって天照大神の面倒を見ることになる。倭姫は天照大神の安住の地を求めて放浪を始める。書紀には、近江国・美濃国を経て伊勢国に至ったと書いてある。何で美濃くんだりまで放浪したのか不思議であるが理由は判らない。最終的には、五十鈴川の辺に至ったとき、「この国は素晴らしい。ここに住みたい」と天照大神の仰せがあったことから、そこに祠が建てられたとされている。それが現在の伊勢神宮である。
この天照大神の「伊勢遷座譚」から幾つかの重要な問題が明らかとなってくる。
(1) |
先ず、天照大神が皇祖神として伊勢神宮で祭祀されていることは歴史的な事実であることから、天皇家の日向本拠説は単なる創作物語に過ぎないことを示していることになる。 |
(2) |
この遷座譚の舞台となる崇神天皇は、このシリーズ(8)で示したように古事記・日本書紀共に初代天皇であることを明らかにしている。そうであれば、その当時、既に天皇家の祖神となることの出来る神は、三輪山の神しかいないことになる。この神は卑弥呼の時代から大和の守護神として祭祀されていた神だからである。 |
(3) |
ところが、天皇家の祖神はこれまでの検討から、出雲の神である可能性が高いと想定されている。そうであれば、崇神天皇の時代に宮中から放り出されたとされる神は、一体誰だったのかが改めて問題となってくる。 |
このように天照大神の伊勢遷座譚から重要な問題が引き出されてくるが、このような問題をどのように考えたらよいのか、次回に検討を進めることにする。(続く)
前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
☆ 古代ヤマトの遠景(15)・・・【氷川神社・賀茂神社】
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