古代ヤマトの遠景(18) —【伊勢遷座】— |
信越化学工業(株) 木下清隆
|
前回、天照大神が伊勢へ遷座させられたのは、崇神紀以降であることを述べたが、今回は、その後天照大神と称されるようになる神が、歴史上何時、伊勢へ遷されたのかを検討することにする。なお、この神については便宜上暫く天照大神と表記することにする。
具体的な遷座年代については、専門家による幾つかの論議があるが、雄略朝であるとする説が有力である。その理由は、日本書紀の垂仁紀二十五年条に、一(ある)に云はくとして、 倭姫命 …… 然して後に、神の誨(おしえ)の髄(まにま)に、丁巳(ひのとみ)の年の冬十月 …… 伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷しまつる。…
と出てくるからである。この条の「一に云はく」は、他の場所では「一書(あるふみ)に曰はく」と表記されることが多いが、これは日本書紀の特徴で、要するに本文に対する注記のことである。
残された史料によれば、「丁巳(ひのとみ)」の年に伊勢遷座が行なわれた、と書紀が注記していることから、これが一つの決め手になるということである。では、丁巳は西暦何年に当たるのかが次に問題となるが、これについては477年とする説が有力のようだ。干支は60年周期となっていることから、この年より60年早い417年に当てることも当然可能である。この時代は応神・仁徳天皇の時代に当たるが、これらの天皇が天照大神を宮中から遷す理由がほとんど見当たらないのが難点である。今度は60年遅い537年を当ててみると、この時代は宣化・欽明朝の頃になるが、この時代になると天照大神に対する評価が急上昇する時期である。従って、これも適合しないことになる。このように時代判断をすると、結果的に「丁巳」は477年だと結論されることになる。
|
伊勢神宮「外宮」
|
この477年は丁度、雄略朝と重なってくるが、この天皇は「倭の五王」の中の「武」に比定されている天皇である。倭王武は「 …… 昔より祖禰(そでい)躬(みずから)甲冑を(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。…… 」と書き出された上表文を作成したことで有名である。この上表文を宋の皇帝に奉ったのが478年のこととされている。この上表文や、記紀の記述から倭王武の時代に倭国の統一が、かなり進んだと考えられており、このような国家統一の過程の中で伊勢遷座が行なわれたとしても、そう無理は無い。裏付けとして、雄略紀に史実として信憑性の高い「斎王(さいおう)」が登場していること、外宮(げくう)の祭神が雄略朝に鎮座した記録が残されていること等が挙げられる。これらから、伊勢神宮との関係の深さが伺われ、従って、「丁巳」の伊勢遷座は雄略朝の477年と判断されることになる。
ここに出てくる「斎王」とは、伊勢神宮に祀られている神の祭祀を行なう女性のことで、一般には内親王から選ばれた。斎王の居所を「斎王宮」というが、後世になると略した「斎宮」が斎王を意味するようになり、専ら斎宮が用いられるようになった。
初代の斎宮は豊鍬入姫(崇神)、二代目は倭姫(垂仁)、以下、五百野(いおの)姫(景行)、栲幡(たくはた)姫(雄略)と続く。この内、初めの3人の皇女については、その父である崇神・垂仁・景行の三天皇が、記紀の記述からみて、実在した倭王をモデルとして創作された天皇と考えられることから、三人の斎宮の存在も大きく疑われることになる。従って、雄略天皇の皇女栲幡(たくはた)姫になって、史実上最初の斎宮が登場したと判断されることになる。
「外宮」とは伊勢神宮の「内宮」に対するもので、伊勢市駅の近くに位置している。内宮と規模・結構は殆ど替わらない。内宮は五十鈴川の辺にあり、外宮とは5kmほど離れている。一般に内宮のことを「伊勢神宮」と思っている人が多いが、内宮・外宮がセットになって伊勢神宮は構成されている。これら伊勢神宮のことは次回に述べることにする。(続く)
前回の「古代ヤマトの遠景」は、下記からご覧頂けます。
☆古代ヤマトの遠景(17) ・ | |